「映画はドラマだ。アクシデントではない」

とは病身の小津安二郎から吉田喜重が「ぼそっ」と言われた言葉だという。先週2本の新作日本映画を見たのだが、この言葉の意味をよく考えたい気持ちにさせられた。

恵比寿ガーデンシネマで「間宮兄弟」、吉祥寺プラザで「嫌われ松子の一生」。共に原作もので、監督が脚本も担当している。キャスティングもそこそこ充実しているし、セットもきちんと、CGも駆使(特に「松子」)したりして、手間と時間がかかっている。それと一番大事な作り手の情熱、も感じる。(何をやりたいのか、わからない映画が多すぎる)。でもどうしてこんな映画なのだろうか。
 おもうに余計な演出、「映像」が多すぎるのである。「間宮」はこまかいところで変にはしゃぎすぎだし、「松子」は特殊効果やミュージカルシーンが空しい。全体に妙に長い。特に「松子」のラスト15分くらいはいったい何?

こうした要素が作品の個性というやつといわれれば、それまでだが、やはりこうしたことは「映画」にとっていらないことではないだろうか。先の小津の言葉で言うと「アクシデント」であり、これらは「映画」ではないのではないだろうか。では何か。「テレビ」だ。「情報」だ。

では「ドラマ」とは何か?「人間」だ。「人生」だ。この2本の映画で描くべきは、間宮兄弟の生活や松子の愛でないのか。リアリズムでなくても結構だけど、そこのポイントからは外れてはいけない。余計なことをしなくていい。
目に見えないものを描こうとするのが映画なのではないだろうか。

でも、もちろん映画は見え、聴こえるもの、細部描写が大事。たとえば「家族ゲーム」のこまかさは、あの時代のあの家庭のドラマにおいて、すごいリアリティがあってゾクゾクした。伊丹十三が目玉焼きを「チューチュー」したり、優作が水を「ゴクゴク」飲んで「奥さんこの水、カルキが強すぎますよ」と言ったり、今だに鮮明なイメージが残っている。でも今回の兄の肩が「ゴキゴキ」鳴る演出は、いったい?

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